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ぬこたそそと星降る男もげげほげげ

空想したり文章を書いたりするのがすきです。いまできるからうれしい。うれしい。

決議

 

 

 

「はい、そこまで!」

 ラインズマンの笛が鳴ったと同時に、主審は声を張り上げた。

 室内の空気を、中心から外へ向かって張りつけていた鋭角な均衡が、ぬるりとしたものに変わる。この瞬間、ここにいる人々は集団を守る動きから個人の体を守る動きへと、一瞬にその集中していた対象を変更させる。もちろん、これは誰しもが行なわなくてならないことではないが、怪我から身を防ぐために、凡そ全ての参加者が実行しているはずだ。

「汗を吹けーっ」

 監督の声が室内に響く。

 もう200年近くの歴史を持つ会議場は、その床には、数多の汗と、感激と無念による涙が吸い込まれており、その壁には、今のように、歓喜とも慟哭ともつかない、溢れ出さんばかりの感情がこだましている。壁に届く前に、それら感情の波が持つ振幅は、その審議が均衡であったのであればあるほど干渉され、結果としてその多くは打ち消されてしまっているが、しかし、幾分かの感情はところどころに溜まっているままである。

 そんな状況のなかで、ネクタイの結び目をキュッキュと指先で繊細に絞り上げると、襟元、そして袖の埃を、まるで、それまでを含めて一連の所作であるように、誰しもが同じようなタイミングで行なった。

 

 主審が何か、それは判定であるはずなのだが、を言い出そうとするのを手で制して、審議委員が物言いをつけた。それがあまりに絶妙な間合いで入れた、合いの手のようであったので、公聴席からは、「ほう」という感心の声が漏れた。

「前日とはだいぶ違うな。同じ『ほう』でも」

 膝の上の鞄を机にして、ノートパソコンでエクセルVBAのテトリスを作りながら、靴尾は独りごちた。靴尾のそういった感覚の鋭さは、時として同僚やキャップの反感を買う事もあるが、実に的を得ているものが多かった。特に半年前からレトロゲームを作りならが仕事を行なうという、靴尾本人の言い方をそのまま採択するのなら、夢見がちな三連休、という名の学習法を身につけてからは、以前にも増して、その感覚の鋭さが輝きを放っているように窺える。

「重要なのは図と地であって、その狭間に存在する特異点を如何に早く発見できるか、それだけだと思うよ」

 こともなげに、靴尾はそう説明するのだが、我々からしてみればそれは至難の業であり、靴尾の発言から時折垣間見れる不遜な態度をいつもは煩わしく感じているお粥派の人々も彼のその早期発見能力は認めざるを得ないところである。

 

「審議の結果、本採用は主審の判定を改める事となり、否決されました」

 会議室が響めく。嗚咽と呻きが混じった吐息と俄に立ち上った歓喜が捻り合って、高い天井に向かって昇華していく。

「正直なところ、こういう結果になるとは大方が予想していなかっただろうな。自分も含めて」

 靴尾は、いつもの話し声と変わらぬトーンでそう言いだしたが、語尾に向けて、まるでFRAGILEとシールが貼ってある宅配物をそっとテーブルに置くように慎重な口調で終わらせた。

「前評判では圧倒的な大差で可決すると言われてましたからね」

「ああ、何かあったのかもしれんな」

 靴尾は口にするのも馬鹿馬鹿しいといった表情でそう言った。

「また、サラダオイルですかね」

 ここまで届くはずもないとわかっていながら、ぼくは場内の匂いを嗅ぐような仕草をした

「また、愛嬌でてるぞ」

 靴尾はそう言ってぼくの行為を指摘したが、まんざら嫌ではない様子は容易に見てとれた。

 

 

「桃牟田君」

 その声に桃牟田が振り返ると、横縦幹事長が撓んだ腹を上下に揺らしながら、議事堂の長い廊下を向こうから走ってきた。上下ともジャージ姿の時より、スラックスだけをジャージに変えた時の方が、横縦のステップは軽快に見える。

 桃牟田の視線に気付いた横縦は、自分の体に視線を落としてから桃牟田を見つめて、「どうしたんだね」と、はにかみがちに聞いた。

「いえ。さすが、スポーティービズを提唱なされたお方ではあるなあと拝観しておりました」

「君みたいなイケメソにそういってもらえると、なんだか自信が湧くよ」

 懐かしのアイドルのように、片足の膝から下を横に跳ね上げるように少し曲げてから、

「桃牟田君。実際のところ、今日の判決について君はどう思う」と尋ねた。

 桃牟田は顎に手を添えて、少し思案してから、

「個人的には憤懣やるかたなしですが、我々の説明不足がゆえに世論の賛同を確固として得ることができず、キャスティングボードがそういった市井の声を掬い上げ、代弁して反対にまわった結果、こうなったのでしょう」と答えた。

「世論調査では、圧倒的な大差で可決するとの声が高かったようだが」

 横縦は桃牟田に一歩近づき、表情を覗き込むように眺めながら、そう聞いた。

「もう少し我々に体力があると思っていてくれたのでしょうかね。それとも、単に我々が不甲斐ないだけなのか」

 横縦は俯き、しばし、まるでふて寝でもしているようにだらしなく伸び広がっている自分の腹を眺めた。幹事長としての責任不足を痛感している風であると言っても、受け入れられるような項垂れ方である。

「時に、後方で引っ張っていた一年生議員たちから、ドレッシングの香りがするという声が上がっているようだが」

「ドレッシングですって?」

 思わず驚きの声を挙げてしまい、慌てて周りを見回した。幸い、周りには誰もおらずホッとする。

 不用心を少し諌めるような表情をしてから、横縦は、

「それもシーザーのようなんだよ。ゴマではなく」と不満げに呟いた。

「また床からとかですか?」

「いや、それが今回は、綱から匂ったらしいのだ」

「しかし、綱から匂うのだったら、審議が始まる前の確認の時点で気付くのではないでしょうか?」

 横縦は、廊下の気配を確認するように慎重に時間を空けてから、

「一年生議員たちのことだ。もしそれが自分の勘違いだったとしたら進行の大きな妨げになってしまうと思うと、気持ちが竦んでしまい言い出せなかったのだろう」と彼らの気持ちは充分に察すると言わんばかりにゆっくりと二度首を縦に振ってから付け足した。

「我々にもそういう時期があって今日の自分があるのだ、新人たちを守ってやるのも我々の大きな役割だ」

 

 

 

 いつにも増して勉強会の参加者が多かった。

 前の会議が延びたため少し遅れてやってきた桃牟田だったが、副委員長に伝えておいたとおり、各自は自主トレに励んでおり、その真剣さは、あちらこちらのトレーニングマシンがウェイトを引くロープの音を聞くだけで容易に伝わってきた。

「みんな今日のやりきれない想いを筋トレをすることで昇華させているんだ。サラダオイルだとか青じそドレッシングだとか、今は、そんな眉唾な話を楯に自己弁護したり詭弁を弄している場合じゃないんだ」

 桃牟田は上腕二頭筋に力を込めると、固く締まっている缶のプラスティックの上蓋を力強く開けた。

「もっとわかりやすく説明する力。もっと親身になって当事者を理解することのできる豊かな心。もっと深く将来を推測できる広く奥行きのある知識。身につけなければならないことは、まだ山とある」

 そう言うと、手に持っている午後のトレーニング用のプロテインを呷るようにして飲み干した。